インド旅行は、訪問したすべての土地が印象的であり、まだそのショックから醒めていない。今思いつくことを記しておこう。


大気汚染と埃

アグラはタージ・マハールを含め世界遺産の建造物を三っつ有する都市である。そこで目にした大気汚染には本当に驚いた。あの美しい白大理石のタージ・マハールが目の前で霞んでいる
のである。写真にすると「幻想的」であるが、あまりのひどさに昔見たSF映画(人口爆発と大気汚染の地球を描いたもの)のシーンを思い浮かべた。場内に電光掲示板で掲示された浮遊粉塵濃度は許容値の7倍を示していた。

ところで、大理石の化学組成は炭酸カルシウムであり、酸性雨にさらされると変色しさらに溶解していく。実際、タージ・マハールに黄変が起きているという。アグラの大気汚染は自動車(古い自動車が多い)の排気ガスとともに周辺にある工場、とりわけ石炭を使う煉瓦工場から発生するようで、行政も工場の操業停止あるいは緑地帯の整備などの対策がとっているようだ。

アグラほどではないが、スモッグは今回訪問したインド各地で見られた。デリー、ムンバイなどの大都市の他バラナシーで見た「幻想的な」日の出も大気汚染と思われる。自然豊かなアッサム・メガラヤ (チェラプンジーの優雅なNahkalika滝などがあるところ)でも霞がかかっていたのが意外であった。南に位置するバングラデシュの大気汚染は世界でも最悪と言われるがその影響であろうか?

今回訪問した土地で空気がきれいだったのは、カジュラホー、ダージリン、エローラ、アジャンタなど周囲に大都市がない田舎である。最初は、霞がかった風景はインドの気候、風土が作り出しているのかとも思ったがそうではなく、やはり自動車や工場の排気ガスがスモッグを生み出しているのであろう。


一方、インドはどこも埃っぽい。大地が乾燥していること、
舗装していない道路が多いので自動車が舞上げる砂塵が埃となる。街中でも、牛、山羊、犬がそこら中にいるが、それらの糞が乾燥して土と一緒になって舞い上がる。インド旅行では衛生面に気をつけて、生水、生ものは口にしないなど気をつけていたが、これらの埃は呼吸と一緒に入る恐れはある。食中毒を起こしたという外国人旅行者を何人も見たが、食事以外にこのようなことも原因ではなかろうか。また、洗濯を2,3日に一度はしていたが、上着やズボンを洗うと真っ黒な汚れが出てきた。バラナシーのガンガー河で多くの人が布を洗っていたが、布を岩にたたく「たたき洗い」であった(写真)。これは、埃っぽいことと関係があるのだろうか?  (2007年12月28日記)

その後読んだ本によると、インドの女性の美しい民族衣装であるサリーは、洗濯時に色が落ちやすく電気洗濯機になじみにくくそれも河で洗う理由の一つであるという。


また、インドの都会や鉄道駅などはどこもゴミが散乱している。特にプラスチックゴミが目立つのは化学屋として反省させられる面もある。人々はいらないものをポンッと投げ捨てる。これらを掃除する人々が沢山いるので投げ捨てる行為に抵抗がないのだろうか?


前述の本によると、洗濯あるいは掃除に従事する職業は低いクラスの人々のものであるという。 (2008年6月8日記)


仏教について

今回、仏教の4大聖地のうちの二カ所(ブッダガヤとサルナート)を訪問できたのは意義あることであった。これを機会に、インドにおける宗教の歴史や仏教誕生のころの教典を読んだことで新しい発見があった。

私にとって、お寺は一般の日本人と同様子供のころからあまりにも身近な存在であった。身近過ぎるためか、そこに祭られているものについて考えることもない。葬儀や法事で「お経」を聞くことがあっても意味を理解しようとは思わず儀式に必要な呪文としか思わなかった。日本仏教について、思いつくのは宗派とか教祖(空海、道元、親鸞、日蓮など)であり、また、文学に表れる「もののあわれ」などの思想である。ふだん何気ない表現や習慣が調べてみると仏教に由来するものと知り驚くこともある。多くの日本人にとって、肝心の「お釈迦様」がどんなことを言ったのかを知る機会はほとんど無いように思われる。私の場合、10年ほど前に仏教原典に関する本を読む機会があり、それ以来「釈迦の仏教」と「日本仏教」の違いなどに漠然とした興味を持っていた。


今回、インドの聖地を訪れるなかで釈迦の言葉を理解しようと努めた。そして、日本仏教とかなり異なっていることをあらためて知った。

まず、日本仏教では「極楽」とか「浄土」信仰の要素が強いと思われるが、意外にも釈迦は死んだ後のことについては(極楽、浄土についても)ほとんど語っていない。釈迦の時代にも死後のことは人々にとって大きな問題であった。ある人が、釈迦の教えにそのことが無いことを不審に思い、「死後どうなるかの問題がわからない限りあなたの教えを信ずることはできない」と言ったところ、釈迦の答えは、「もし毒矢が刺さったときに、その毒矢がどのような身分、家柄、名前の人が射たものかわからなければ刺さった毒矢を抜かない、と主張するようなものではないか」であった。質問した人は、最後には釈迦に帰依した。


また、「神」についても、その神の言葉を伝えるバラモンについても、懐疑的な考えを持っていた。人生の苦しみは、もの(これには神も含まれる)に執着することから起こる。そして、人間は各人一人一人の中に(「瞑想」によって)真理を知る力がある、ということが釈迦にとってもっとも大事な考えだったように思う。日本仏教では(あるいは中国・台湾でも)、大日如来、阿弥陀如来あるいは観音様が神のような存在となって(「祈り」による)信仰を集めてきたがこの点も原始仏教と大きく異なる。

つまり、釈迦の教えの中心は「いかにより良く生きるか」にあり、形而上的な議論を好まず、神を想定しそれを絶対視することを良しとしなかったのである。今日、膨大な「経典」が知られているが、釈迦の教えはそれほど複雑なものではないようだ。


古代インドでは、バラモン達が伝える教え(バラモン教)が中心であったが、仏教は急速に広まっていく。紀元2世紀ごろには国王の庇護を受けると同時に、インド西北部(ガンダーラ)に居たギリシャ人が仏像を作ったことからさらなる発達をしていった。そして、インド古来からの神々や土着の神々は仏教の「守護神」として取り入れられていく。その後、バラモン教も仏教と同じように土着の神々を取り入れて次第にインドのなかで勢力を得ていくことになり(5世紀ころ)、ヒンズー教が形成されていった。ヒンズーの神々の像も仏教にならって作られるようになった。

仏教は、インドからチベット、中国に伝わり、あるいはセイロン、タイなどに伝わる中で、各国の仏教学者達により思想的に発展していった。とりわけ、中国、日本では個人の救いを万人の救いに拡げる大乗仏教として「進歩」した。この大乗仏教成立の過程で、「瞑想」から「祈り」の要素が強まったように思う。


日本仏教を最初に完成させたのは、弘法大師・空海である。彼は、並外れた勉強家であり、長安留学時(804〜806)には仏教のみならず、ヒンズー教、儒教、道教など当時の思想をどん欲に吸収し彼の中で統一的な思想としてまとめたと思われる。当時の長安にはキリスト教(景教)、イスラム教(回教)、ゾロアスター教(けん教)の寺院もあり空海も知っていたであろうが、彼はそれらをどう学んだのであろうか?彼が伝えた「密教」はヒンズー的要素(特にカジュラホーで見られたようなタントリズム)が強いものである。

この空海の精力的な仕事と思想についてもいずれ知りたいと思っている。


釈迦の教えを原点に戻ってそれを守るか、それとも親鸞(浄土真宗)に代表される日本仏教(大乗仏教)を信仰するのが良いか? その答えは、前述したように釈迦自身が述べている。真実は自分に真剣に聞けば明らかになる、と。

     みずからを灯火(ともしび)とせよ、

     みずからをよりどころとせよ、

     他をよりどころとするなかれ。

      法(のり)を灯火とせよ、

      法をよりどころとせよ。

      他をよりどころとするなかれ。ー ブッダ  

(ここで言う「法」(インドではダルマという)とは、8っつの守らなければならない生活態度(八正道)を指していると思われる。)          ( 2007年12月28日記)


独り旅と(夫婦)二人旅

今回の旅は、私独りで始めて20日間独り旅をしたあと、久美子を迎えてともに12日間の二人旅をした。これは私にとっても久美子にとっても良かった。

旅の前に予想はしていたが、インド旅行は精神的にタフさが要求される。車の運転の荒さ、スラムのようなマーケット、下心を持って近づいてくる人々、押し売りや物乞い、しょっちゅうつばを吐く男達、交通機関の混雑、食べ物の好み、衛生状態、等々、かなりのストレスを受ける。私の場合、最初の二日の実地トレーニングでほぼストレスを消化する方法を学んだ。その後は、いわばスポーツのようなあるいは修行のような気持ちでいた。それぞれの目的地の観光を楽しむというより、旅を創造し、人々との出会いを楽しんでいたと思う。ふつうなら驚くことに出会っても平常心でこなしていこうとした。そして、安全な範囲内でできるだけ「生の」インド人とインドの生活に接していこうとした。

久美子を迎えるにあたってちょっと身構えた。というのが、自分のこのペースを続けられないのが明らかだから。ホテルの選択、交通機関、どれも新しい視点から考え直した。それでも、久美子にはインドのショックは大きかったようだ。デリーではごみごみしたバザール通りで立ち往生し、アグラではシーグリーの押し売りに閉口し、駅のプラットホームでは絶え間なく来る物乞いの姿に神経をすり減らしていた。その後乗った寝台列車でストレスがさらにたまったのであろう。体調を崩してしまった。その頃、旅の疲れが出たのか私も腰痛を患った。ここで、考えを完全に切り替え、交通機関も宿泊先もできるだけ快適なものにして観光を楽しむことにした。

独り旅の味も忘れがたいし、二人旅の思い出も楽しい。旅もいろいろ。二人旅ではそのときそのとき二人の考え方が違うのはやむを得ない。足して二で割るのではなく、二人とも安全・快適な旅とする必要がある。こんな当たり前のことがわかったことも収穫だ。

                            ( 2007年12月28日記)


旅行準備と持ち物

今回のインド旅行で事前に準備したものと持ち物を整理した。

A. 予防接種

法的な義務はない。ホームドクターがCDCのサイトに基づき、インドについては以下の予防接種を受けることを勧められ実施した。

  1. 1.MMR (measles/mumps/rubella) はしか・おたふくかぜ・ 風疹

  2. 2.Hepatitis A A型肝炎

  3. 3.Hepatitis B B型肝炎 (*実施せず)

  4. 4.Typhoid  腸チフス

  5. 5.Rabies  狂犬病

  6. 6.Japanese encephalitis  日本脳炎

  7. 7.Polio  小児麻痺


以上のうち、B型肝炎については現地で血液・体液との接触の危険性が無い場合は必要ないとのことで接種しなかった。また、

8.Malaria  マラリア

については、予防薬を用意し週一回の頻度で服用することにした。


B. ビザ

日本人、アメリカ人ともインド入国にはビザが必要。インターネットのサイトで書類を作成後、その書類、写真およびパスポートをNYのビザ発給事務所に持って行く。簡単な審査があり、翌日ビザスタンプを押したパスポートが配達された。


C. トラベラーチェックとキャッシュなど

旅行で使うお金は次を用意した。

・米ドルで$2000のトラベラーチェック(T/C)を銀行で購入した

・米ドルキャッシュ

・クレジットカード

ATMカード

以上のうち、私は主にT/Cをルピーに両替して使用した。久美子はATMカードでルピーを引き出していた。クレジットカードは使用しなかった。


D. 旅行保険

インターネットで、Travel Insuredの旅行保険を$153.36で購入した。


E. 航空券

インターネットで格安航空券を探し、最終的にCheapTicketsで、Etihad Airwaysのニューヨーク・デリー間のラウンドチケットを購入した。$1080.34。チケットはノンリファンダブルであるが、予定の変更は$150+差額で可能、という条件である。


F. 持ち物 (バックパッカーとして極力荷物は減らした)*印は結果的に不要であったもの

1.バックパック、ズボン、長袖スポーツシャツ、登山用パーカー、ウォーキングシューズ、登山帽、簡易布袋、パスポートホルダー

2.替衣類: 短ズボン、Tシャツ(x3)、下着類(x3)、*水着

3.衛生他: 洗面具一式(含アカスリ)、タオル、洗濯ひも、消毒用ウェットティッシュ、トイレットペーパー、薬類、めがね(ケースとも)、サングラス(ケースとも)、ヘッドランプ、電池、*傘、*防雨カバー、登山用手袋

4.「地球の歩き方」、文庫本2冊、ポケットノート、ボールペン(x3)、付箋紙、数珠

5.鍵(バックパック用、ダイヤル式、x2)、*自転車用ワイヤーロック(荷物固定用)

6.パソコン(MacBook)、外付けハードドライブ(バックアップ用120GB)

7.カメラ(NIKON D80)、予備バッテリー、バッテリーチャージャー、カメラーパソコン連結USBコード、電源変換プラグ

8.*カムコーダ(SONY DCR-PC3)、予備バッテリー、 バッテリーチャージャー、カムコーダーパソコン連結FireWireコード、テープ

9.*一脚(三脚、ステッキ併用、HAKUBA VersiPod2)


インドで購入した持ち物

10.鉄道時刻表、セーター、厚手の下着類


セーターと厚手の下着類は、ダージリン(標高2500m)で購入使用したが、それ以外でも使用した。この時期のインドは意外に涼しい。また、カムコーダはインドの舞踊などを撮影する目的で持参したが、結果的にその機会がほとんどなかった。自転車のチェーンキーは、夜行列車などで荷物を固定するためであるが、ほとんど使用しなかった。 一脚は便利ではあったが(ビデオ撮影をしない限り)必需品ではない。簡易布袋は、機内持ち込みやふだんの観光に利用した。衣類の出し入れなど機動性があり(ナップサックなどより)便利であった。また、バックパックの代わりに車付きの小型キャリーバッグの方が楽かもしれない(ダージリンでは階段が多く、宿に着くまでキャリーバッグは使いにくい。タクシーを使えば問題はないが)。


また、今後バックパッカー旅行で持って行く方が良いと思われるのはシーツである。安宿でも安心できるから。


今回パソコンはMacBook(写真)を使用した。OSはMac OS X10.5 Leopardである。ウェブサイトの作成・公開にはApple のiWebを使用。

カメラで撮影した写真はこのパソコンに取り込んでカメラのメモリーの負担を軽減した。また、写真左手の黒色のものは120GBの小型ハードドライブでバックアップ用として使用。


インドの電源プラグの形状はイギリス式である。変換プラグは下の写真の青色のものを使用した。これ一個で世界中の主なプラグ形状に対応するスグレモノである。


こうして、今回持って行ったものが以下の写真である。右手奥の黒いものはバックパックである。


                            ( 2008年1月6日記)


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Epilogue  インド旅行を終えて